説教要約 マタイ5:21-26 2020.3.1
「亡き者としない」 井上創牧師
「命の持ち主は誰か」ということを考えたとき、わたしの命も、誰かの命も、この世界に命を作られた方のものだということに気がつきます。
この命の持ち主が、わたしのことを考え、わたしのためを思い、隣に置いてくれた同胞なのです。
それを無碍に扱ってよいものでしょうか。亡き者がごとくに扱っていいものでしょうか。
また、わたしの体や、心、そしてそれらを携えて生きてきたその日々を与えてくださった方に、「これは自分には相応しくない」とか言うことができるでしょうか。
やがて誰にも終わりの時が訪れます。
その時に、わたしたちは歩んできたすべての己をもって神さまに相対することとなるのです。
23節、神殿で己自身を捧げる時。25節、旅路を終える時です。
そこでわたしたちは、「あなたが愛してくださったわたしという主人公を生き切った」「あなたの愛に十分に応えた」と言いたいではありませんか。
そういう結末に至る道が、わたしにはまだ残されている。
今日、この日を生きる命がまだ残されている。
誰か、あるいはいつかの自分と仲直りするその時間を与えられているのです。
まったく真っ白な人間になることはできないかもしれません。
しかし、少しでも互いを愛し合うことが、わたしにもできると、今日の箇所を通してイエスさまは励ましてくださっているのではないでしょうか。
この信頼に応えていくことができたらと思うのです。
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