わたしたちはみんな神さまのものです。
神さまは御自分の創られた一つ一つの作品を「よいものだ」と喜んでくださいます。
そういう神さまの目線を思うとき、わたしたちは自分のあり方を必要以上に悩む必要がないことに気がつくはずです。
肉を食べようが、野菜を食べようが、そういうわたしを大切に思ってくださるお方がいる。
だから、ただ自分を神さまの前に差し出していく。捧げていく。
あとは、神さまがそれを「よいものだ」と喜んで受け取ってくださるのです。
それほどまでに大切にされているわたしたちが、どうしてお互いを裁き合い、侮り合うことがあるでしょうか。
立場の異なる者同士が、互いを受け入れ合う姿を、教会の原風景とするならば、
ローマの教会と同じく、イエス・キリストを主と仰ぐわたしたちの群れもまた、
そこに帰って行くべきなのでしょう。
今、キリスト教会は、様々な姿形で世界のそれぞれの地に立っています。
それは、神さまが立たせたものたちであると、4節に書かれていました。
そうやって立たされたそれぞれの召し使いにとって、共通しているのは同じ主人を仰いでいるということです。
どれほど互いの違いを感じさせられるようなことがあったとしても、この一点において、わたしたちは互いを受け止め合っていくことができるのではないでしょうか。
神が人となる。
その最も大きな違いを乗り越えてくださったイエス・キリストこそが、
わたしたちの旗頭、わたしたちの主人なのです。
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