ヤコブ1:19-27 2019.9.1
「心から滲み出てくるもの」 井上創牧師
22節。「御言葉を行う人」というのは、聖書に書かれているあれやこれやの教えや決まり事を実行する人という意味ではないのでしょう。
心に植え付けられた御言葉とは、わたしは愛されているという喜びの実感です。
そして、わたしを愛してくれているのと同じように、目の前の相手をも愛している神さまの愛をみつけること。
これが、「御言葉を行う」ということの一番深くにある、最初の一歩なのではないでしょうか。
その後のどういう行動に表れてくるかは、別の話として。
まずは、「それでも自分は愛されているのかもしれない」。
そういう最初の小さな亀裂から、少しずつ、少しずつ、滲み出てくる、漏れ出してくる。
27節。困っている人の世話を「しなければならない」のでありません。
そういう困っている人を見たときに、わたしたちの心からは自然に、何かが滲み出てくるのです。
そういう滲み出てくるものが、もうわたしたちの中にはちゃんとあって。
ただ、もしかしたら、それに蓋をして、見ない振りをしたり、それを一端置いておかなければならないような、余裕のない事態に陥っていたりすることもあるのかもしれません。
だから、神さまは、わたしたちにその度に語りかけてくれているのです。
19節、「わたしの愛する兄弟たち」。
まず、あなたは愛されているのだと、御言葉はわたしたちを励ますのです。
今、わたしたちの心の中に蒔かれたものを、そこから滲み出てくるものを、みつめることができたらと願うのです。
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